広島市平和記念式典で読まれない もう一つの平和宣言「平和と安全を求める被爆者たちの会 」HPより
ここに眠る皆様に謹んで申し上げます。65年前のあの日、火事を避けて太田川の河原で見た現実はこの世のほかの風景でした。広島市の惨状は大戦で被害を受けた他のどの地にも増して悲惨な光景でした。その日からわずか20日後の記録があります。
夥(おびただ)しい人の誰も泣かない。だれも感情を抑え、阿鼻(あび)叫喚(きょうかん)の気配はどこにもない。黙って静かに死んでいく人達、ひどい火傷の負傷者の寂(じゃく)として静かな姿に心打たれる。水をのみ、握り飯(めし)を頬(ほお)ばってはっきりと名を告げて息を引き取った少年勤労学徒。死骸と並んで寝ることも恐れぬ忍耐。※骸(むくろ)になった幼い妹を背負い、直立不動で焼き場に立つ少年。
あなた方はどんな貴族よりも高い精神の中にいたのですね。中華民国は、日本破れたりとはいえ、秩序整然たる態度はわが国人(くにびと)の範(はん)とするに足る、と賞賛しました。
原爆はあなた方の心にまでは届かなかったのです。私たちはそれを誇りとします。
しかし、あなた方はこれが犯罪的で理不尽な攻撃であることを知っていました。外国人特派員を案内した日本人は断固として、「広島の住人は君達を憎悪している」と言ったのです。その言葉は生き残った人々の眼にも顕れていました。それでも、嘆きと憎悪の日を希望の日に変え、互いに助け、互いに労わり、手を携えて復興に邁進されたのです。
多くは斃(たお)れ、別の多くは永らえ、新しい命を育(はぐく)み、街は見事に蘇りました。私たちは今なお、あなた方の力と心によって生かされています。
思えば、我が国人(くにびと)は千数百年にわたり、時来(きた)れば御社(みやしろ)を壊し、また作り、そして精神もまた、蘇ってきたのです。広島も同じです。古(いにしえ)に海を越えてやって来た数多(あまた)の神々もそれぞれにその所を得て先祖たちと溶け合い、懐深い心を作りました。それでも人の生きる営みは時に争いを起し、猛(たけ)き者もやがては滅びました。この姿に、人々は千年も前に悟ったのです。永遠に続くものは無いと。消えかつ結ぶ泡(うたかた)の命の、浅い夢に酔うことはないと。
東から吹き寄せた風は束の間の300年の平穏を破り、父祖たちは荒ぶる世界に直面しました。そして様々な人たちの様々な故郷(ふるさと)は取り、あるいは取られ、ついにあの日が来たのです。
私たちは矛(ほこ)を収めましたが荒ぶる世界はなおも続きました。世界の東西に壁が張り巡らされました。時の流れの中で恩讐を超えて、この国はあなた方を苦しめた側に立ちました。そして豊かさを得ました。しかし、あなた方の、あの静かなる誇りと忍耐や高い精神は忘れられてきています。
20年前、西方では自由の風が壁を壊しました。古人(いにしえびと)の悟りは正しかったのです。近くの壁の力は弱くなり、勃興した新しい猛(たけ)き力は暖気と冷気の混ざり合った渦となり、我が国に吹き寄せています。核の国は増え続け、核の知識は広がりました。不気味な隣国の増大する核の脅威に私たちは曝(さら)されるようになりました。
未だなお、奪われたままの故郷(ふるさと)があります。奪われたままの同朋(どうほう)がいます。奪われるかもしれない故郷(ふるさと)もあります。今、我が国の苦難は深まっているのです。これに慄(おのの)き、避けんとする人々は茫漠(ぼうばく)たる抽象の彼方に視界を送り、観衆の声援を集めることに力を費やし、照らし出すべき光の焦点を定めようとはしていません。しかし、声援はあっても、その光の先には未だ想像以外のどんな実像も結ばれていません。
その一方で、歩むべき足元の道は闇に隠れました。そしてこの国では、足下の道を拓(ひら)くどころか、そこに光を当てることすら忌避されるようになりました。私たちが苦難を乗り越えて生きるためには、今歩むべき道筋をしっかりと見定めなければなりません。風の前の塵であってはならないのです。
私たちは決意しました。例え忌避されようとも、闇にもまた光を当てなければならないと。遠くも、近くも、そしてどんなに苦しくとも照らし出さなければならないのです。万国の法は核と争いの縮小を求めています。さらにその実現のために、声援だけではない努力も求めています。直接の脅威に曝(さら)される我が国は、万国の法の認める価値をともにする国の取る行動と歩みを合わせ、あらゆる努力が傾けられなければなりません。今日平和であることは、明日の平和を保証しないのです。明日に連なる実効的な努力の継続だけが、永続する平和への扉を開くのだと確信します。
私たちはまだ、あなた方に「安らかに眠ってください」と言える資格がありません。今の私たちには、世界と溶け合った古(いにしえ)の心に源流をもつ、その賞賛すべき高い精神を必ずしも受け継いではいないからです。しかし、私たちは忍耐を持って理不尽な死を迎える直前、「兵隊さん、仇(かたき)を取って下さい」と言われた人のいたことを忘れません。あなた方は今もなお、私たちと共にあります。どうか見守ってください。あなた方の高き心が私たちの精神に満たされたとき、そして継続する努力が日々の平和を繋(つな)ぐことが出来たとき、私たちの仇(かたき)討ちは終わります。その暁(あかつき)には、改めてあなた方に申し上げるでしょう。「安心してお休み下さい。過ちは繰り返させませんから」
式典で読まれないもう一つの平和宣言
広島 平成22年8月6日
「平和と安全を求める被爆者たちの会」
代表 秀 道広 (被爆二世)
事務局長代理 池中美平 (被爆二世)
言葉になりません。潔しと言うのか、恨み言の一つも出るところなのでしょうが、ただただ涙が溢れるばかりです。日本人の高潔さなのでしょうか?それにしても・・・涙。
勉強不足でしたが『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから』 の言葉にパール判事の言葉を思い出しました。
パール判事はただ一人、日本の立場を理解してくださって、膨大な資料から、証拠を集めて『東京裁判』でただ一人、無罪の判決を出してくださった方です。
もっとしっかり勉強しておくべきでした。(恥)
遅まきながらパール判事の本を読みたいと思っています。
ここに眠る皆様に謹んで申し上げます。65年前のあの日、火事を避けて太田川の河原で見た現実はこの世のほかの風景でした。広島市の惨状は大戦で被害を受けた他のどの地にも増して悲惨な光景でした。その日からわずか20日後の記録があります。
夥(おびただ)しい人の誰も泣かない。だれも感情を抑え、阿鼻(あび)叫喚(きょうかん)の気配はどこにもない。黙って静かに死んでいく人達、ひどい火傷の負傷者の寂(じゃく)として静かな姿に心打たれる。水をのみ、握り飯(めし)を頬(ほお)ばってはっきりと名を告げて息を引き取った少年勤労学徒。死骸と並んで寝ることも恐れぬ忍耐。※骸(むくろ)になった幼い妹を背負い、直立不動で焼き場に立つ少年。
あなた方はどんな貴族よりも高い精神の中にいたのですね。中華民国は、日本破れたりとはいえ、秩序整然たる態度はわが国人(くにびと)の範(はん)とするに足る、と賞賛しました。
原爆はあなた方の心にまでは届かなかったのです。私たちはそれを誇りとします。
しかし、あなた方はこれが犯罪的で理不尽な攻撃であることを知っていました。外国人特派員を案内した日本人は断固として、「広島の住人は君達を憎悪している」と言ったのです。その言葉は生き残った人々の眼にも顕れていました。それでも、嘆きと憎悪の日を希望の日に変え、互いに助け、互いに労わり、手を携えて復興に邁進されたのです。
多くは斃(たお)れ、別の多くは永らえ、新しい命を育(はぐく)み、街は見事に蘇りました。私たちは今なお、あなた方の力と心によって生かされています。
思えば、我が国人(くにびと)は千数百年にわたり、時来(きた)れば御社(みやしろ)を壊し、また作り、そして精神もまた、蘇ってきたのです。広島も同じです。古(いにしえ)に海を越えてやって来た数多(あまた)の神々もそれぞれにその所を得て先祖たちと溶け合い、懐深い心を作りました。それでも人の生きる営みは時に争いを起し、猛(たけ)き者もやがては滅びました。この姿に、人々は千年も前に悟ったのです。永遠に続くものは無いと。消えかつ結ぶ泡(うたかた)の命の、浅い夢に酔うことはないと。
東から吹き寄せた風は束の間の300年の平穏を破り、父祖たちは荒ぶる世界に直面しました。そして様々な人たちの様々な故郷(ふるさと)は取り、あるいは取られ、ついにあの日が来たのです。
私たちは矛(ほこ)を収めましたが荒ぶる世界はなおも続きました。世界の東西に壁が張り巡らされました。時の流れの中で恩讐を超えて、この国はあなた方を苦しめた側に立ちました。そして豊かさを得ました。しかし、あなた方の、あの静かなる誇りと忍耐や高い精神は忘れられてきています。
20年前、西方では自由の風が壁を壊しました。古人(いにしえびと)の悟りは正しかったのです。近くの壁の力は弱くなり、勃興した新しい猛(たけ)き力は暖気と冷気の混ざり合った渦となり、我が国に吹き寄せています。核の国は増え続け、核の知識は広がりました。不気味な隣国の増大する核の脅威に私たちは曝(さら)されるようになりました。
未だなお、奪われたままの故郷(ふるさと)があります。奪われたままの同朋(どうほう)がいます。奪われるかもしれない故郷(ふるさと)もあります。今、我が国の苦難は深まっているのです。これに慄(おのの)き、避けんとする人々は茫漠(ぼうばく)たる抽象の彼方に視界を送り、観衆の声援を集めることに力を費やし、照らし出すべき光の焦点を定めようとはしていません。しかし、声援はあっても、その光の先には未だ想像以外のどんな実像も結ばれていません。
その一方で、歩むべき足元の道は闇に隠れました。そしてこの国では、足下の道を拓(ひら)くどころか、そこに光を当てることすら忌避されるようになりました。私たちが苦難を乗り越えて生きるためには、今歩むべき道筋をしっかりと見定めなければなりません。風の前の塵であってはならないのです。
私たちは決意しました。例え忌避されようとも、闇にもまた光を当てなければならないと。遠くも、近くも、そしてどんなに苦しくとも照らし出さなければならないのです。万国の法は核と争いの縮小を求めています。さらにその実現のために、声援だけではない努力も求めています。直接の脅威に曝(さら)される我が国は、万国の法の認める価値をともにする国の取る行動と歩みを合わせ、あらゆる努力が傾けられなければなりません。今日平和であることは、明日の平和を保証しないのです。明日に連なる実効的な努力の継続だけが、永続する平和への扉を開くのだと確信します。
私たちはまだ、あなた方に「安らかに眠ってください」と言える資格がありません。今の私たちには、世界と溶け合った古(いにしえ)の心に源流をもつ、その賞賛すべき高い精神を必ずしも受け継いではいないからです。しかし、私たちは忍耐を持って理不尽な死を迎える直前、「兵隊さん、仇(かたき)を取って下さい」と言われた人のいたことを忘れません。あなた方は今もなお、私たちと共にあります。どうか見守ってください。あなた方の高き心が私たちの精神に満たされたとき、そして継続する努力が日々の平和を繋(つな)ぐことが出来たとき、私たちの仇(かたき)討ちは終わります。その暁(あかつき)には、改めてあなた方に申し上げるでしょう。「安心してお休み下さい。過ちは繰り返させませんから」
式典で読まれないもう一つの平和宣言
広島 平成22年8月6日
「平和と安全を求める被爆者たちの会」
代表 秀 道広 (被爆二世)
事務局長代理 池中美平 (被爆二世)
言葉になりません。潔しと言うのか、恨み言の一つも出るところなのでしょうが、ただただ涙が溢れるばかりです。日本人の高潔さなのでしょうか?それにしても・・・涙。
勉強不足でしたが『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから』 の言葉にパール判事の言葉を思い出しました。
パール判事はただ一人、日本の立場を理解してくださって、膨大な資料から、証拠を集めて『東京裁判』でただ一人、無罪の判決を出してくださった方です。
もっとしっかり勉強しておくべきでした。(恥)
遅まきながらパール判事の本を読みたいと思っています。
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※ 骸(むくろ)になった幼い妹を背負い、直立不動で焼き場に立つ少年。
背中におんぶしている妹はすでに亡くなっています。
焼き場で順番を待っている少年の姿です。
唇から血が滲むほどかみ締めていたそうです。やがて自分の番が回ってきて、背中から下ろされて、妹の
体は焼かれ、少年は一筋の涙を流して一礼をし、その場を立ち去ったそうです。
泣かずには居られません。
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※ 骸(むくろ)になった幼い妹を背負い、直立不動で焼き場に立つ少年。
背中におんぶしている妹はすでに亡くなっています。
焼き場で順番を待っている少年の姿です。
唇から血が滲むほどかみ締めていたそうです。やがて自分の番が回ってきて、背中から下ろされて、妹の
体は焼かれ、少年は一筋の涙を流して一礼をし、その場を立ち去ったそうです。
泣かずには居られません。
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